ABOUT
「デザイン振興の舞台」を、社会のどこに、誰に向けて設置したら良いかは、時代的背景とその振興機関が置かれている立場によって変わります。日本のデザイン振興がスタートした段階では、それは極めて明快でした。
人材以外にこれといった資源をもたない日本は、競争力の高い商品を作りそれを輸出することでしか生きていくことはできません。それを具体的に実践する方法として、商品のデザインが求められたのです。まずは輸出品を生産できる製造業にデザイナーを派遣する、企業の経営者や開発担当者を対象とした研修会をおこなう、デザインのコンクールを開催する。そうした手法を使いながら輸出企業のデザイン能力を高めることが、初期のデザイン振興の課題であったのです。
日本からの輸出品も、100年ほど前は陶磁器や繊維製品でした。戦後は工業製品が中心となりますが、これもカメラなどの趣味的機器に始まり、家電や自動車、工作機械や建設機械、コンピュータとそのシステム、さらにはサービスシステムへと時代を追って変化していきます。つまり主な輸出品が次々と変化していくにことによって、ほとんどすべての産業が産みだす製品やサービスがデザインされるに至りました。単にデザイナーの数が増えたばかりではありません。彼らの活動によって企業の経営者、技術者、販売担当者など、産業を構成する様々な専門家たちのデザイン能力が高まりました。このことによって、質の高い商品やサービスを継続的に生みだせる企業体質が培われていったのです。
日本のデザイン振興は、1950年代の後半から組織的にスタートしていきます。行政的な体制とグッドデザイン賞を始めとする振興政策が整い、それを担うデザイン振興機関が設立されていきます。この初期の段階から取り組まれてきたもう一つの課題が「生活者への啓蒙」でした。消費者の選択能力が向上しない限り良い製品やサービスは産みだされない、だから消費者の教育が必要であるとする考え方は、モダンデザインの初期から主張されていました。しかし、日本においても、消費者を一段低い存在とみなした啓蒙手法は成功しませんでした。
生活者の意識変革は、こうした啓蒙政策ではなく、商品やサービスの売買という、市場の論理によって徐々に到達されていったとみるべきでしょう。商品やサービスがデザインされる。そのデザインが、生活者の自己の生活を見なおすきっかけを与える。だから支持される。売れることによって産業が軌道修正される。このプロセスは決して直線的な発展ではなく、紆余曲折に満ちたものでしたが、暮らしや社会の質と産業が提供する商品やサービスの質が、デザインを媒介として同時的に向上していくことは間違いないようです。つまりこれまでの振興政策は、産業と生活者を別個の対象として捉えていたことに問題があった。そこで、日本のデザイン振興政策の中核を担うグッドデザイン賞に、「提供者と受容者の良き循環を産みだす装置」としての役割を担わせることにしたのです。
生活者の意識は1990年頃を境に大きく変化していきます。誰もが雛形がないことに気づきました。自分のライフスタイルは自分が築くしかない。そう考えた時、多くの生活者がデザインに気づいた、デザインを必要としたのです。グッドデザイン賞の認知率は87%にも達しています。このことは、日本の生活者がデザインに信頼を寄せていることを意味していることを物語っています。多分に結果的ではありますが、日本のデザインは、デザイン能力の高い生活者を育てることに成功したと考えて良いと思います。